湘南のゴール裏の中のひとり

湘南ベルマーレを中心にふらふらしております

Shonan Make History 2018

1994年、日本テレビのスタッフに
「地元を表すなにかを身に着けられるようにしてください」と言われたのがTwitterアイコンの私だ。

たしかラスカのショップで買ったはず。

第14回全国高等学校クイズ選手権(通称:高校生クイズ)の全国大会ではずっと身に着けていた。
が、放送の中ではベルマーレに触れられることは無かった。

―我々は大磯高校でベルマーレ平塚は地元だけど隣町-

90分の放送において説明が面倒だからだ。


当時、ベルマーレ平塚は彼女のいる高校生がデートに行く場所で、
それだけ神奈川県平塚市に住む人にとって、限られたイベントだった。

Jリーグの開幕戦は覚えている。
そこに「平塚」が参入すると聞いてどうゆうこと?と思った。
「横浜」「大阪」「川崎」「広島」「名古屋」と名前の知った地名に並び称される違和感があった。

ま「鹿島」とか「磐田」とか「市原」とか「浦和」とか知らなかったけど。

 

その熱狂の中、ベルマーレを観に行くことは無かった。
でもスポーツニュースは見ていた。
選手の名前は知っていたし、ダイジェストも見ていた。

通った専門学校、勤務した会社すべてのPCにベルマーレのブックマークはしていた。
気が向いたら見ては「また負けたか…」とでじこのバナーに苦笑した。

 

ある日のかすかな記憶がある。

死んだ父から「ベルマーレでも観にいかないか?」と言われた。
高校を卒業しては職にも就かず、大学受験もせず、
タダ飯を喰らっていた私に生活の変化をもたらしたかったのだろう。

いつで、どこと対戦したのかすら覚えていない。
たぶん7ゲートで観た。でも試合結果を覚えていない。

そのくらい希薄な体験だったのだろう。

 

そのくらいの時、
妻は子供をベルマーレのサッカースクールに通わせていた。

大神のグラウンドにバスで向かい、
帰りに高田保則選手から話しかけられたらしい。

「ポジションはどこなの?FWはいいよ。華がある。」

と、まるで言い聞かせるような話し方だ。
その時買った妻のユニフォームは洗濯のしすぎでDDIがかすれにかすれている。

 

2002年は日韓ワールドカップだった。
その前年、番組制作会社から某局の報道セクションに派遣された私は、
番組のレギュラーコメンテーターだったR.R.さんと仕事をしていた。

新体制のキックオフと言うことで青山のカリオカでADふぜいが話していた。

「R.R.さん!僕の住んでいる街にはベルマーレというチームがあるんですが、どう思いますか?」

間髪入れずに

「ダメっ!僕の欲しい選手用意するのに必要なお金があるね。
 でもベルマーレにはできない。だからダメね。
 お金あったら強くできるよ。でもないからできないね。」

そっかーと思っていたら、後ろにビスマルクが現れポルトガル語で丁々発止の会話が始まった。
隣のディレクターは顔を伏せていた。
ワイドショー担当の時、テニスプレイヤーとの件で追い回していたのでばつが悪かったのだ。

後に2014年のFC岐阜戦でR.R.監督が記者会見の席で
「湘南はJ1にあがったら降格してこないようなチームだ。」
という発言を見て一人悦に入っていた。

 

2013年ベルマーレのチケットを取引会社からもらった。
湘南ベルマーレvsサガン鳥栖」戦の指定席券だった。

妻に「行こうよ」と言うもののの、
「わたしが行くと負けるから…」と難色を示していた妻は、
「J1だし行ってみようかな」に変遷し行くことになった。


以来、今に至る。

僕は曺さんに感謝の集いで感謝を伝えたことがある。

「“私が行くと負けるから”と観に行くのをためらっていた妻に
 ベルマーレの観戦を取り戻していただきありがとうございます。」

曺さんはアツい目線で「こちらこそありがとうございます」と握手してくれた。


湘南の新しい歴史は、あと一勝で手に入る。
僕たちはベルマーレとともに胸に抱くための星を勝ち取りに行く。